昭和40年10月06日 夜の御理解
たとえば一円の硬貨でも、千円の銀貨ですかね、銀貨でも、お金としてのお金に代わりはない。ね。一円硬貨だってやっぱりお金、千円銀貨だってやっぱりお金はお金なんだけど、その値打ちが違う。お互いが信心さして頂いて、何を学ばしてもらい、何を身に付けさしてもらう為にお互い信心をさして頂いておるかという事を、ほんとのところに、その目指しというものが置かれるようにならなければいけない。
お参りすりゃおかげを頂くから、ね。お参りさして頂いて、いろいろお伺いさせて頂たりするからの為に、信心をさして頂いておる人も、それも嘘ではないけども、信心は、もう、どこまでも人間としても、値打ちをいよいよ立派なものにしていく為に信心があるのです。人間をとしての値打ちを造っていくために、信心の稽古をさして頂くのです。ですから、も、ほんとに私は、そこに信心の目指しというものを置かなかったら、信心が向上しないと思うんです。
いくら、どんなに有難い御理解を頂いても、聞いただけなんです。御理解を頂いたら、なるほどだと、ここに合点がいったら、なるほどだということを自分のものにしていくことに一生懸命努めて、だから人間の値打ちというものが段々付いてくる。だから私共が、信心を頂いて、教えを頂いて、その教えが自分の血や肉になって、それが神様に喜んで頂くような氏子としてのおかげを頂き、ね。
世の中に、社会の為にです、貢献出来る、お役に立てれる人間にならして頂くところに、その人の値打ちが段々おかげを頂いていく。去年よりも今年というように、値打ちが段々上がっていくようなおかげを頂く、そこに、目指しを置かなければいけない。10年信心しとるけれども、10年前の私も、10年後の今日の私も、さほどに、なるほどおかげは頂いてきたけど値打ちに於いては変わっていないとするなら、それは、ほんとに神様をほんとに寂しい思いをさせる事であろうとこう思う。
なぜって、神様の願いはそこにあるのでない、お信心の目標はそれなのだから。人間としての本当の値打ちを作っていく。そこんところを、『信心とは我が心が神に向こうて行くのが信心というのじゃ。』とこうおっしゃる様に、信心とは自分の心が少しずつでもおかげを頂いて神様に近ずいて行くというその事。それが人間としての値打ちを造っていくことだと思うですね。
今日、久留米の野口さんがお日参りをなさっておられますが、お参りをして見えてから、ちょうど今日が、明日が、ひと七日なるそうですが、あちらに下宿をしておられました。あちらの息子さん、それからお父さんが勤めておられる会社に、その久留米、会社は久留米にありますが、そのう、野口さんところに下宿して、まあ、勤めておられた熊本の方なんですね、天草かどっかです。
それが息子さんと年も友達だそうですが、も大変仲が良くてもうこのなんですかね、こう山とか道とか測っこう高されるお仕事なんです。何時も二人連で出掛けられるんですけれども、その日に限ってその息子さんの方は久留米の方で、そのお友達の方は熊本の方へ測量の為に出かけられた。それから出られて何時間の後に、電話電報が来てその交通事故で重体、もうそれから10分後には亡くなられたというてから電報が来た。
もう野口さんもう今日まで、その事を悔やみ抜いておられるんですけれども、本当に自分の息子と一緒にその、どこどこに出張すると言った時には、必ずその息子さんとその方と二人のお届けがあるんです。ところが息子さんは久留米に残っており、その友達だけが行かれたんですが、その事の為にお届けをしてなかった、事がこういう結果になったと思うたら、もほんとに合すまん事だと言うてですね。
ま大変その事をま言うておられましたんですけども。もうその代わりにもうほんとに親身なこと、もう死体も全部久留米の野口さんとこに運んでこられて、あちらでお葬式があって、もういわば大変なお世話を、しかも真心こめてからそのなさってまあなさったんですけども、その後の事もまあやはり同じ事なんですね。で明日でひと七日であちらの天草の方へ又親子でお出でられるそうですが。
もう毎晩、毎晩最近こそあたくしゃもうこのもう、祈りに明けて、祈りに暮れておるというは、ここ四、五日のことを、そう言うのじゃないだろうかと思う位に、一生懸命神様に、ご祈念をさしてもらうち言うてからですね。まお夢なんかでも、はっきり頂かれてですね。そんなお葬式を済まされたあくる日、お夢を頂かれたのにですね。突然、親先生がお見えておられる。
どうも家ではお葬式をしたばっかりだから、神様は黒幕をはって、そのまあ不浄がかかっちゃならんというのでしとったら、「そげなことがあるもんかい、神様を出してあれせじゃこて、今日はお祭りをするばい、お酒はあるの、お供え物を早う買うてこんの」と言うごたるふうでですね。そして、その美登里会の方達やら、主だった椛目の信者さん方が50人ぐらい集まってです、ちょうど、あすこでお葬式の時の、まあ、なんちゅうですかあれは、お膳を出すでしょう。
あれが丁度50人だったそうですね。やっぱりそのお参りがあって親先生がみえて頂いているのもやっぱ50名余り、でその慌ててそのご直会をお供えを用意して、お祭りをして頂いた。でその後のご直会を作るのに大童しておるようなお夢であった。ご理解にですね。ほんとに有難いと思う事は、ね。そういう他人の誰彼の事をです。自分の親身の事としてです、しかももうほんとに縁起でもないですよね。
自分のとこに、死体を運んで来てと言うのですから。そらもう断っても言い訳なんです。けれども大体もう、お家は熊本の大体、熊本の八代の出やったんです。すとその方のお家は、天草の方だったそうです。それがあのあちらへ、それでも近所なんかはその、「野口さんのお宅には、どなたかご不幸があったんですか。」ち言うて近所から聞きにみえるような状態であった。
もうそれでもう、ほんとに自分方のもう親身な者としてのお葬式やらもされて、そのおかげ頂かれたんですけれどもですね、神様はあの毎年毎年、年に一回ずつ宅祭をなさるですがね。『宅祭をしただけの徳』と仰るです、神様は。そうでしょうね、人の為にですよ、の為にほんとに縁起でもないとか、困ったとか、というものではなくて、一家中が挙げてその人の為にお葬式をそこでされる、たんですよ。そうしたらね、その家でお宅祭をしただけの徳と神様仰る。
してみると宅祭りなんかあって、ほんとに思いを込めてしなきゃいけない事がわかるですね。そんなことでした。ほっで、今日もです。も、先生昨夜も私は、もう家の御霊さんの前にお座りさして頂いてから、「どうぞ、ここに前下宿しとった○○さんが、こんなふうで急に亡くなったから、どうぞそのもう御霊の力もないだろうから、うちの御霊さん、ああた方の力を頂いておる、御霊の徳を受けておられる、ああた方のところに、ま、野口の家の御霊様のところに新入りが一人出けました。どうぞひとつ、まあ具合よう導いてやって下さい。」
ちいうてから生きたものに物言うように、その御霊さんの事をその頼まれた。というお届けをなさっとんです。そしたら丁度秋山さんといまその重子さんとが参っておられました。中島さんそしたらあちらの方に座っておられたんですけどね、あそこから聞こえるようなオイサミが。それであの霊前にあの花がさしてあります。真ん中に菊の花があるでしょう。あの菊の花がこうやって、大揺れに揺れるお知らせを頂く。
あの見たり聞いたりされた訳なんです。御霊さんがやっぱ野口さん見てご覧あんたが親身にその、ああたんとこの御霊様に「今度の何何さんの新入りの御霊さんをどうぞ可愛がって下さいよ、よく導いてやって下さいよ」ち言うてから、そのお願いをさして頂きよることがです。もう神様も受け取って下さり御霊様もそうだという印を、ここの御霊の前で見せて下さるねと言うてから、今日は有難く思ったことでございました。
ほんとにあの神様事といい、御霊様事といい、大事にさして頂かなきゃならん、同時にです、他人の御霊の縁があるならば、そういう御霊の為にでもです。今日もこちらに自動車で来るがけに、横に80ばっかりのお婆さんが乗られて、ほんとになにか知らんけども、他人のごとは思われんと。「おばあちゃん、何処にお出でられるんですか」と言うたら「吉井まで」と。
「こちらの方が良いですよ」ち言うて奥の方に席を上げて、そのう「どうぞ吉井までも行っとられるそうですから、もう見かけよぼよぼしておられますから、怪我どん、過ちどんがありませんごと、どうぞあの目的地まで着かれますごと」ち言うて、その隣の席で祈らせて頂きよったら、も、声あげて泣こごとその感激すると言われるんです(声高に笑いながら)。もう私はここちょうど六日間、五日間ですかね、明日がひと七日ですから、もう毎晩、毎晩、その御霊さんのことが、それがですね。
悲しいと言う事は勿論だけれども、嬉しいやら悲しいやら、それこそ分からん感激が毎晩その私を、そういう喜びに導いてくれるち言うてから、今日も話しておられます。ね。私は今日言う、ほんとにあの、信心さして頂いてですね、一円硬貨だって。千円銀貨だって、金に変わりはないのだけれど、その金の値打ちが違う。同じ人間の面をしとると。お金を持っとるから値打ちがあるのじゃない、器量がいいから値打ちがあるのじゃない、ほんとに人の助かる事の為にです、神様の難儀いわば可愛い氏子がです。
しかもその氏子の中にはです、御霊様もあります。縁もないいわばその、御霊様の為にでも、袖すり合うも多少の縁という、その縁を生かしてです。自分のことろに「縁起でもない」でもなからなければ、「困った事である」でもない、これがもし、自分かたの息子だったらどうじゃろかと言うごたる気持ちでです。そうした、いわば事に奉仕されるというような事柄がです。私や、お役に立つ、値打ちのある、いわば信心によってそういうことが分からせて頂けたということが、私や値打ちだとこう思うんです。
皆さんがです、ほんとに誰彼の為に自分がどれだけ光っておるか、どれだけ役に立っておるか、どれだけ神様がお喜こび頂けるような自分たちであるだろうかと言うことを思うてです、ね。ほんとに自分たちの、ま相済まない自分であることを分からせて頂くと同時に、信心とは信心人間の値打ちを造って行く事だと。話を聞くばかりじゃつまらん、聞いてすぐ血や肉になって行くならば必ずそうしてです、ね。横に掛けたそのお婆さんの事でも祈らなければおられないというような、しかもその祈りが通じておると言うことをです。例えばんなら、今日の御霊さんの事で感じられるでしょう。
今日朝の御祈念に竹内先生がお参りになったんです。そしてその沢山のお届けの中に、豊島さんという方のお父さんの今日が祥月命日にあたる。それで甘な辛なそれに好きなお煙草なんかも用意されてですね。あのあちらで出来ませんから、こちらでお祭りをして下さいと、あちらでまあそのう遥拝させて頂くから、先生こちらで御霊さんのお祭りをして下さいというて、お願いがございました。
今晩御祈念に合わせてから、まさして頂いて皆さんこうやって縁が出けた、縁がそういう意味合いに拠って出けた訳なんです。ですから皆さんそういう意味でですそういう見も知らないのだけれども、今晩の御祈念でこうして、そういうひとつの縁を感じられてです、その人の為にそれこそ、折れた線香の一本もというそのそれにもまれずです、ね。自分たちの心の中の、その喜びをその御霊さんに、捧げるような気持ちでです、おかげを頂いて下さるなら有難い。
今からまああのお饅頭のひとつも下げてお茶でも頂いて頂こうと思うんですけれど、そういう縁がです、ただ縁が出けただけでなくその御霊さんの為に祈るという事、祈れれる自分という事。これはもう不思議な事です。というのは皆さんでもです、お金を借りに行くのに、金のない所には借りに行かんでしょうが。もうあすこなら間違いなし金がある所にしか金、行かんように御霊様でも同じことです。ね。
やはりその信心の徳なら徳というものが、自分の助かられるものを持っておられるところにしか、すがっちゃいかんです。そういう意味で野口さんなんかは、それを救えれるだけのものを持っておられたということが尊い。ね。ですから皆さんが少しずつでも出し合わせてです。なら今日の御霊に貴謝なさると言うことであればです。御霊さんが助かられる事になれば、それだけ皆さんが値打ちのある御信心を頂いておられる、と言うことにもなるんじゃないかと思うんですよね。どうぞすぐお茶を差し上げますからお茶を頂いて帰って下さるように。
どうぞおかげを頂きました。